月別アーカイブ: 2005年7月

恐怖

不可能物体を見て不思議とか面白いとかいう感想ではなく、「怖い」「気持ち悪い」「頭が痛い」という感想をいう人がいる。
ある意味よく出来た不可能物体だからこそ出てくる感覚ではあるが、人は不思議な体験をすると時に恐怖や畏怖を覚えるものだ。
否定できない理解できないものを見てしまうと、自分の築いてきた常識や感性が否定されてしまうので怖いのである。
お化けや妖怪なら気の迷いとしてかたずけることもできるが、現実に存在してしまうと否定できなくなってしまうのである。
それが場合によっては、精神的、心理的な作用を起こすのであろう。
この作用の使い方によっては、神聖な道具として使われる。
霊や超能力、超自然の仕業といわれれば、つい鵜呑みにする人も出てくるだろう。実際、宗教的なグッズには、不可能物体に近いものがある。
コーランを置く台、水晶玉を飾る三脚、恋を叶える木彫りのスプーン
など、不思議さと神聖さは、紙一重の関係にある。
あたかもスピリチュアルなパワーがあるかのように錯覚してしまう。
ただ、本当に怖いのは、こういったものが悪用されることである。

上條宜子

木彫りのメビウスリングやパズルリングなどのアクセサリーを作る木彫り作家である。
このモチーフはやはり、Tangermanの本に影響を受けたそうだ。
Whittlingに近いモチーフの作品が多い。
不可能物体に見えなくもない。
全国で個展を開いているそうだから、そのうちお目にかかるかもしれない。
「木の贈り物」小山織 文化出版局

精度

不可能物体の作成にあたり、精度が上がらなくて良いものができないという話をよく聞くが、それについてヒントを書いておこう。
このサイトにUPしている写真をよく観察することだ。
まずはそこから始まる。
それが最大のヒントである。
実は解る人だけがわかるヒントがいっぱい隠されている。
文章の方は、戯けたコメントがほとんどなので参考にしなくても良い。
たとえば、素材について、よく観察してみよう。
精度が上がらない原因は、主に素材選びにある。
ヒノキとしか説明していなくても、その色、形、年輪からかなりのことが解る。解らない人は、まず、木材についてよく勉強することだ。
これらのことから、私が柾目の周辺材を主に使い、かつ特定の年輪の向きにこだわって作っていることがわかるだろう。

スプーン

博内画瓶,内壷画など呼び方がいろいろあるが、ガラス瓶の内側に絵を描いたものである。
中国の山東省のみやげ物で手に入る。

博山内画瓶はつくりが好みで、造型が新規で、特別な面白みがあるため、まれな珍品と見られている。博山の内画瓶は観賞用でも実用でもいい小型工芸品である。特製されたごく細い竹筆で、豆のような大きさの瓶口を通して、その内部の壁に、山水や花草、人物、動物などの絵を書く。草稿もできないし、書き改めもできないため、絵者たちは習熟した技芸を持たないとできない、すごく成算をもっている。長年間苦心経営の結果として、博山の内画工芸は二つ重大な革新を遂げた。一つは、内画の色を水色から磁色に直して、加熱するによって固められる。このように、内画の色を水にあうと褪せるという難問をとけた。もう一つは、竹筆のかわりに毛筆で絵を描くようになってから、絵の線条が非常に流暢になって、内画技術が新しい階段を迎えてきた。

ガラス細工はまた“ガラス器”を量って、中国の明・清の時代にあまねく使った工芸品が材料を作るのだ。明日崇禎の年間の宋応星に代わるによって《神業が物をつける》記録を書いた:“瑠璃の石は于西域を産して、そのカラーがきらきらと透明なため、中原人が好きなために似せて作る。”
ガラス細工はいつ国外から中国まで(へ)広く伝わって、考古の学説界の言い方は一様でない。しかし明日万暦の年間代わって、山東の博山のガラス細工の製作はすでに非常に繁栄して栄えて、そして北京まで(へ)広く伝わる。康煕の35年を点検して、北京は大規模な“瑠璃廠”が現れて、皇宮の楽しむガラス細工を生産して、すこぶる皇室人員の称賛を受けて、明日代わるのが山東の博山所つくるガラス細工で最もよくて、透明度は高くて、光沢はきらきらと透明だ。《青州府の志》中は紹介する:“瑠璃器、顔を出す神は(今山東の博山)を抑えて、特産品の馬牙で、紫の石為主、仏は光明丹、白い鉛、緑青を使って、焦剪成の玉は、明かりのついたて、盤面、釣り手、枕の頂類を着て、光瑩はかわいい。”初期中国のガラス細工は多く色彩のボールと碗、瓶、尊重、などの生活の用品でで、精巧で美しくて独特だ。粉の後期を点検して、山東の博山のガラス細工の芸人、北京内はかぎタバコびんの絵師をかいて、ガラス細工のかぎたばこの壷内の絵画事件で始まって、インは人々の愛惜を得る。そのため、粉を点検する人民の初めのガラス細工のかぎタバコびんはある期間流行が速く広範囲にわたって、そして海外に流れ込んで、多くの欧米の芸術品の収集家はすべて中国のガラス細工のかぎタバコびんを隠す集がある。

内は技術の于清と光緒をかいて16年博山に入ってきて、その時、絵師の畢栄の9はさらにこの芸に優れていて、そして広く弟子を伝えて、山内を博するために芸術の鼻祖をかく。20世紀の40年代に山内のかく1度の中断を博する。解放後、内は古い芸人の張文堂、薛の京万の重さをかいて元の商売を整えて、伝統の技巧に受け継がせる。新しい1の内は芸人に代わって40数年を通じて(通って)努力して探求することをかいて、技巧は日進んで、中国の工芸美術を育成しだす大家、高級な工芸美術師と技術師の数人。その作品は青の勝つことをたくさんありだす。国内外で収集になって軒が金をいとわないことを探し求める宝与えることに署名することに人気がある。近年国内の毎回が展覧を評定する中で何度も金メダル賞を光栄にも獲得して、百花賞、そして国際展覧の中で何度も金メダルの銅メダル賞を得る。内はかいつまんで言うとかぎタバコびんをかいて、自制する筆跡を使って、口が小さく豆のの平方寸の瓶のようだ内でバック・ハンドは絵を描く。絵を描く時、絵師は一心不乱にならなければならなくて、息は丹田に沈んで、発力と于腕、息の于筆。大いにかく精神は平方寸の天地の間で溶ける。内はかいてきわめて視力がかかって、内の画家は働いて半時間祭少し休んで、一両の時間ごとに目を閉じて静かに休む。このために、ただ本当に内の絵の難度の収集家を理解して、やっと特にこれらの芸術品を大切にすることができ(ありえ)る。内が作品をかくのが非常に苦しいため、百多機能は年来て、この芸術は依然として我が国所のためにただある。現在、我が国が従事する外に絵の画家は数えきれないで、しかしこの仕事に従事してそして一定のレベルの内の画家がいて、歴史の流れ百年以来皆1百人足らず。

だそうだ。

もっとも原始的な食器は木のスプーンである。
現在では、スプーンというと金属製のものを思い浮かべるが、
金属を手に入れていないか、高価で手に入りにくい時代は、
木で作ったものが主流であった。おそらく文明が始まると同時くらいに木のスプーンは存在している。
そのような時代には、スプーンには、特別な意味があった。
ウェールズでは恋人達や夫婦の間で木のスプーンを送りあう習慣
があった。
現代では、木のスプーンを贈り物にもらってもうれしくともなんともないだろう。しかし、スプーンというのは、食料がおなかいっぱい食べれますようにという豊穣のシンボルであり、最も切なる願いであったのだ。
日本では、スプーンこそ奉る文化はないか、代わりにしゃもじを奉ったり、飾ったりするのでそれと同じことだ。
ウェールズでは、スプーンを送りあう習慣の中で極めて装飾性の高い、
トリッキーなスプーンが生まれた。
これらは、Love SpoonとかCeltic Spoonと呼ばれている。実用性のない飾りとしてのスプーンである。
ケルトは、ここ最近のシルバーアクセサリのブームでそのデザイン性を知っている人も多いだろう。十字架や植物をモチーフにした装飾性の高いものである。
そのようなスプーンの中からトリッキーなデザインが好まれるようになった。Ball in Cageや鎖、ロープ、結び目、鍵、動物や植物をスプーンに掘り込む。古くは16世紀までさかのぼることができる。
また、スプーンに特別な想いを寄せるのは、ウェールズだけでなく北欧、ゲルマンなどでも同様である。同様に装飾性の高いスプーンが作られている。
では、なぜスプーンで、フォークではないか。
フォークを木で作ると串の部分に強度的に問題があり実用ではなかったからだろう。
さてこのスプーンに堀り込むトリッキーなデザインには、隠語のような意味がある。
錨は「家に居てね」、鎖は、「捕まえてやるぞ」、Ball in Cageは、同じく「捕捉された愛、子沢山きぼんぬ」、結び目は「不滅の愛」等など
と恐ろしい言葉が並ぶである。このような隠語から主に女性の趣味であることがうかがえる。
つまり、このスプーンは、一種の白魔術的なおまじないのようなものであったと想像される。
もし、怪しげな木彫りのスプーンをもらったらこのよう意味である。
このような意味をこめて手間隙かけて作るのだから、あな恐ろしい。